最近、私は岡山を去り幕別に入植した先祖に思いをはせている。彼はどんな思いで温暖な故郷を離れ寒冷な未開の地に渡ったのだろう。2月に長男夫婦の引っ越しの手伝いをし、旧宅にあった私の家財道具を思い切って捨てた。そして、30年以上も住んだ埼玉を後にしたが、息子達や友達に当分会えないと思うと寂しさもひとしおだった。入植した先祖も私と同じ思いで故郷を離れたのだろうか。
岡山県から17戸を率いて入植した先祖の千種策太郎について幕別町史や新得町史を調べ、本家の長男である叔父にも尋ねた。策太郎が幕別の白人原野に入植したのは明治29年、41歳のことだった。時の総理大臣は伊藤博文。北海道の開拓の歴史をみると明治19年(1886年)に北海道庁が設置され、同年6月29日に「北海道土地払下規則」が公布されている。この規則によって開墾希望者は一人10万坪まで、未開地が無償貸与され開墾成功後には1000坪1円(現在の4044円ほど)で購入することができた。
北海道の開拓者に与えられた優遇措置はそれだけではなかった。明治24年(1891年)北海道庁第二部植民課が刊行した北海道移住問答では北海道に移住すると受けられる恩典が列挙されている。例えば、開拓者が払い下げで得た土地には20年後でなければ地租・地方税が課せられない、地租は地価の100分の1(他府県の地租は100分の2.5)、所得税は官吏以外には およばない、酒造税は一般税額の半額。菓子・醤油及び車税は免除、徴兵令は、函館・福山(松前)・江差を除き試行されない等。(当時日本は兵役が国民の義務とされていた。明治の文豪、夏目漱石が大学院に進学するため、帝国大学に在籍中に東京から岩内に移籍したことは有名。)
北海道の開拓を国がいかに強く推奨していたかがわかる。策太郎は武士の出であり、岡山に広い土地を所有していたらしい。故郷に居たとしてもそれなりに生活できたはずだ。内なるチャレンジ精神に突き動かされ自由の新天地で大地主になる夢を抱いたのだろうか。しかし、はるばる渡道し入植した土地は楢や柏などの巨木が密生する原生林だったという。鍬で木を切り倒しては焼き少しずつ耕地を拡げていったらしい。また開拓者は丸太組の掘建て小屋に住み、吹雪の夜には粉雪が布団の上に降り積もったという。零下30度にもなる十勝の冬をよく生き延びたものだと頭が下がる。
新墾風景 (『幕別町史(昭和42年刊)』表紙1.2頁)
入植者の小屋がけ風景 (『幕別町史(昭和42年刊)』418頁)
その後も大自然の厳しさは容赦なく彼に試練を与え、明治31年9月の記録的な洪水で十勝川の水位は4mも上がり、白人地区は水浸しとなった。開墾の進展に伴う巨木の伐採によって、洪水の被害は増大し、幕別では明治35と37年にも洪水が起こっている。折角できた農作物もだめになったのだろう。策太郎は、明治37年に岡山団体の一部を引き連れて新得の屈足原野に移住したと記されている。また叔父から聞いた話によると、彼は洪水で幼い娘を亡くし、後に札幌農学校(現・北海道大学)に進学中の一人息子も、病で亡くしている。失意の程は想像に難くない。
大正11年の洪水【水中の橋は止若橋】(『幕別町史(昭和42年刊)』表紙1.2頁)
はたして策太郎は本懐を遂げたのだろうか。私にはわからない。だが少なくとも彼が北海道開拓の礎の一人になったことは事実。子孫は道民として繁栄した。それは彼が厳しい環境の中で困難を乗り越えて家族を守り、踏ん張ったからだ。
私にもその勇気と強さが遺伝していると信じたい。
文/まぶさ(秋桜)
参考資料 :
・『幕別町史』(幕別町史編纂委員会・編/1976)
・『新得町史』(新得町史編さん委員会・編集/1990)
・『北海道の歴史がわかる本』(桑原 真人・著/2008/亜璃西社)
・『十勝人 心の旅』(千葉 章仁・文/2014/十勝信用金庫)
・『明野今昔史』(明野開拓記念誌編纂部・編集/1979
/明野開拓記念事業実行委員会)