2024年 (令和6年)
12月22日(日)
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北の森の話も一つ。 北の森と国道38号線の間の篠島美子さんの庭先に旧病馬廠(びょうましょう)のものと思われる竈(かまど)がある。穴の数は3つ。コンクリート製だ。病馬廠(びょうましょう)は、軍馬を管理する補充部隊の役割もあったようだが詳細は知らない。

ふるさと館郷土史部会は2012年6月にこの背後の森も調査している。
11m×5.5mの小型兵舎跡が10ヶ所
22m×5.5mの大型兵舎跡が4ヶ所 
計14ヵ所の窪みが確認された。

mbs sankaku 02

郷土史部会がこの森を調査した背景には、Kさんの「樺太から引き揚げた後に暮らした場所を探してほしい」というお願いがあった。郷土史部会は、Kさんが北の森の三角兵舎にすんでいたことを突き止めた。当時、南樺太(サハリン)と千島に住んでいた方の中で28万人が、ソ連参戦のため、船で北海道へ向かった。樺太からの船は途中ソ連の潜水艦に攻撃されて1700人以上の犠牲者が出ている。

本州在住のKさんの記憶

・樺太から引き揚げた後、札内白人の森の三角兵舎で過ごした。
・三角兵舎は沼のほとりに立っていた。
・夕暮れになると森の端に母の姿が現れるのをじっと待っていた。

から、小助川さんは、当時途別川の支流が森の西まで伸びていて沼を作っていた。Kさんの母は加藤醸造店が経営していた澱粉工場に勤めていた、と結論づけた。

敗戦のため、樺太や大陸などからの引き揚げ者が十勝帯広にも受け入れられた。終戦前年、旭川から陸軍第七師団(熊部隊)、札幌から陸軍第一飛行師団(鏑部隊)がやってきて、帯広十勝に多くの官舎・施設・三角兵舎が建てられた。兵士の家族も含めると数万人増えたが、戦後多くがふるさとに帰って行った。 帯広市史に「外地からの引揚者が着のみ着のままリュックサック1つでたどり着き、帯広市は旧陸軍の施設を借りて収容した。」「戦後の戸口増は目覚ましく、住宅不足も深刻であった。市は、引揚者住宅や市営住宅を年々建設しなければならなかった」とある。 引揚者は市や町が用意した引揚者住宅に住んだり、バラックを作ったりして住んだ。当然三角兵舎で暮らした方もいた。三角兵舎の森の他にも、途別川のほとりの三角兵舎で5,6家族以上の引揚者が暮らし、やがて札内市街や帯広に移った、との証言もある。 海外からの引揚と三角兵舎での生活、こうした体験を話せる方は70才以上になられているのに、戦争体験ほど書き残されていません。

どなたか話せる方を知りませんか? 心当たりがある方は、幕別図書館まで連絡をいただきたい。

文/まぶさ(百味編助)

参考資料・引用:
・『2012ふるさと館展示企画「幕別と戦争」展示資料』
・『帯広市史(十勝支庁ホームページ)』 http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/obihiro_seikatu_bunka.html
・『図録▽アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ.mht』
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
・『竈の写真』(青柳雅哉(2015.10)
・『第9回 十勝、戦跡・史跡めぐり「幕別の戦跡と史跡を訪ねて」』
 (二ツ山 智氏 作成資料)