2024年 (令和6年)
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三角兵舎って知ってる? それは、半地下に掘って柱を立て、三角屋根を架(か)けた兵舎のこと。ぱっと見、屋根しか見えないし、枝とかで隠したりもしたそうだ。鹿児島県知覧のを知ってるなら、中央通路の左右に寝床がある兵舎の画像を見たことがあるかもしれない。他に、板張りの床のもあったそうだ。兵舎は大きさも中の様子もいろいろあったけど、統一規格の材料を組み合わせて作り、短期間で建てることができたみたい。

十勝にも、帯広や芽室など旧日本軍部隊が駐屯した場所にどんどん建てられた。でも戦後しばらくして殆どが壊され、跡形もなくなってしまったようだ。

ところが、三角兵舎の掘り跡がたくさん残ってる場所が、十勝にも1ヵ所だけある。しかもこの幕別に。それは、止若橋の西、白鳥大橋へ向かう道との交差点を越えてすぐ。国道38号を挟んだ南北の森の中にある。第七師団(熊部隊)が旭川から帯広に移ってきたので、南の林には第1野戦病院が、北の林には病馬廠(びょうましょう=療馬収容班りょうばしゅうようはん=動物病院)が、終戦の前年に設置されて1年ちょっと使われた。そこは、畑にも宅地にもならなかったから窪地が残ったんだろう。

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三角兵舎想像図

2012年ふるさと館郷土史部会が、三角兵舎跡を調べ、北に14ヵ所、南に9ヵ所の跡を計測した。調査結果は、その年の夏、展示企画「幕別と戦争」で報告された。

2015年初冬、青柳、市村両氏が野戦病院跡を調査。ゲートから入ると、窪地がいきなり現れたたという。更に進むとトクサが生えている竈(かまど)と兵舎跡。この窪地の端に、謎の構造物。その後も、ひょいと窪地は現れ、散在する跡を探すのは、ちょっとした探検気分だったみたいだ。似たような木々と跡。あっちこっち歩いたけど、同じ所を回ってるようだったが、何とか4個の跡は確認したという。 2つの調査結果を比較すると、竈つきの兵舎跡だけが対応できた。

2012年7月6日調査
 兵舎⑨ 32m×6.2m
   竈~兵舎⑨の西側、6口、大きさ0.9m×5.6m
   風呂らしきもの~兵舎⑨ 東側に2箇所、大きさは1.2m×2.4m

2015年11月16日調査
 三角兵舎B 31.1m×6.5m
   竈~6穴(直径60cm)、大きさ1.2m×6.6m
   用途のわからないもの~南端にコンクリート構造物。
       東構造物 1.1m×2m、西構造物 1.1m×1.9m 

構造物や窪みの縁が崩れたり埋もれたりしているので、測るたびに数値は変わってしまうもの。また、2015年は短い巻き尺を使ったそうなのでミスも多そう。とにかく、三角兵舎を建てた時は一回り大きな長方形の窪みだったと想像できる。2012年の計測データを確かめつつ、より詳しく調べてみたい。

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竈のある三角兵舎跡

謎の構造物は何だろう。風呂と言うより門番が詰める場所かトイレのように思える。野戦病院特有の施設かどうかもわからないが、他地域の三角兵舎や野戦病院の調査結果、この部隊にいた方の証言があると何かつかめるかもしれない。

旧日本軍は、北海道が戦場になると想定し、帯広の第7師団本部から離れて野戦病院を作ったと思われる。大陸や沖縄から負傷兵が運ばれたとは考えにくく、当時そこがどんな様子だったか分からない。

部隊の隊長だった小原徳行陸軍軍医大尉は、森の西にある加藤宅に住んでいたそうで、戦後訪ねてきたそうだ。彼と繋がれば何か分かるかもしれない。野戦病院や病馬廠にいた方がいたら幕別図書館まで連絡をいただきたい。

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兵舎⑨ 謎の構造物から竈を望む

文/まぶさ(百味編助)

※付記
・その後の調査で、三角兵舎跡の窪地縁が垂直でなく傾斜になている
 理由は、年月により崩れたからではなく、最初から斜面にして掘り
 込んだからだということがわかった。
・竈のある三角兵舎跡の2つのデータの違いは、大きい方が地表面の
 長方形の寸法。小さい方が窪地の底面(長方形)の寸法と思われる。

参考資料・引用:
・『2012ふるさと館展示企画「幕別と戦争」展示資料』
・『2015.11戦跡史跡巡り』(2016.3.13 青柳雅哉)
・『呉空襲後の住宅難を救った「三角兵舎」(ホームページ)』 http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hirokoku-u/file/8576/20110531060625/img-531103845.pdf