幕別町の文化・歴史・自然、多彩な人、ユニークな物、かけがえのない事などを編集して、インターネットで公開したり、図書館の本棚構成をしたり、イベントの企画・運営をするなど、図書館を一緒につくるサポーター「まぶさ(まくべつBOOKサポーター)」の活動を紹介します。
Ⅰ 始まる
◇◆講演を前に◆◇
2016年10月2日。会場に着いたのは、開始30分前。講師平中忠信さんは展示パネル奥のソファーで話していた。バスに揺られての長旅にもかかわらずくつろいだ様子。早速挨拶する。「景色がきれいだった」とおっしゃっていたのが印象的。その後、平中さんはハンセン病展示や館内の本を見ていた。
早々とお客さんが2人。15分前には5、6名。なかなかの出足。
◇◆講師紹介◆◇
展示の発案者からの挨拶に続き講師紹介。主なものを記す。平中さんは大正15年生まれの90歳。「北海道はまなすの里」代表で、ハンセン病回復者が住む全国の園への訪問や、北海道出身者の里帰り支援をしている。この病についての「全道検証報告書概要」も執筆したそうだ。
会場を見渡すと27名。そのうち関係者報道以外の方が14名。いよいよ平中さんの講演が始まる。
- 詳細
- 作成者:MCL編集部
(ま) 「あん」は11回書き直したそうですが、どのような変更だったのですか?
(ド) (書いているうちに)何が正解なのか分からなくなった。差別をする側が主人公なのか、もっとエンターテインメント性を高めなくてはいけないのかとテレビ番組のどらやき選手権を取り入れたりと、いろんな試行をした。最終的には、最初に思いついた一番シンプルな形にした。結末も全く違う。「あん」の朗読劇ではまったく違った終わり方をしている。映画の終わり方も書いたが、それだと仙太郎の人生になる。徳江さんに重きを置きたかった。本では余韻を残す終わり方にしました。
(ま) ハンセン病について知らない人が多いことにあらためて驚きました。
(ド) 基本的に興味がないんでしょうね。意識しないと視界には入ってこないでしょう?ハンセン病は完全に過去のこと。根絶した病気に関心はない。(日本は)他国(の対応)からすべてが30年遅すぎる。もっと僕が早く本を出してあげればよかった。タイミングもあったが、もう10数年早ければという思いがある。(元患者の)平均年齢は80いくつ。多摩全生園にも(元患者は)200人しかいない。多くの意識は「元患者の方がいなくなったらこの敷地はどうなるのか」ということになっている。
(ま) ハンセン病は風化させるべきではないと感じます。
(ド) 「風化させるべきではない」といっても、自然の流れに対しては何もできない。「ハンセン病の差別ひどいね」といっている間は、風化してしまうと思う。「差別はいけない」という上から目線だと、何も伝わらない。徳江さんは作った人物だが、苦難の道をへてきたからこそ、皆がはっとするような人生の視点を感じる。例えば(元患者の)森元さんは片目を失明しており、歩くのもやっと。でも30秒に一度は人を笑わさないと気が済まない。そのユーモアのセンスに励まされる。むしろこういう人生をへてきたからこそ、我々にない感覚をお持ちです。そんな人生の師がいると、(元患者を)とらえ直していかないと。ハンセン病の差別問題にとどまらず、難民問題、ヘイトスピーチをどうするのか。もっと(現代社会が抱えるさまざまな問題に)転じていかないと、とも思います。
- 詳細
- 作成者:MCL編集部
昨年8月に、幕別でハンセン病をテーマにした映画「あん」が上映されました。その際、町内で講演をした、原作者のドリアン助川さんに「まぶさ」のメンバーがインタビューしました。「あん」への思い、映画制作の裏話、現代社会について…。ドリアンさんは「まぶさ」の多岐にわたる質問に一つひとつ丁寧に答えてくれました。講演とインタビューを元にまとめました。
◆
ドリアンさんが「あん」を書こうと思ったのは1996年。パンクバンド「叫ぶ詩人の会」で活動していたころ。この年、ハンセン病を患った人の隔離を定めた「らい予防法」が廃止された。
―らい予防法廃止されて、ほとんどの生涯をその療養所の囲いの中にいなければならなかった人たちの人生が明るみに出だした頃です。らい病は知っていましたが、療養所のなかで何が待ち構えているのか、本当に一生出られなかったのか、そいうことは分からなかった。らい病は、今はハンセン病と言っていますが、致死病ではありません。神経を犯す病気です。指の末端、鼻の先、そういう末端の神経から死んでいきます。昔は強力な副作用がある薬を使って、結果的に指が曲がってしまうため、見た目でこの人はあの病気だと分かる。今は治療薬が開発され、早ければ3日で治ります。感染力も弱いですが、戦前は不治の病と恐れられ、患者は差別されていました。家系の一人から病気が出たとなると、縁談、就職がなくなるなど、親戚一同差別の対象となる時代があった。この法律の恐ろしいところは、病気が治っても自由がなかったことです。療養所に入る時、戸籍から抹消され、名前も変わっている。法が廃止されてもホテルの宿泊、タクシーの乗車の拒否もあり、差別は続きました。―
- 詳細
- 作成者:MCL編集部
まぶさの足跡?【目次】
=図書館サポーター【まぶさ】の活動を紹介=