2024年 (令和6年)
12月4日(水)
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午前10:00から
午後 6:00まで

Ⅰ 始まる

◇◆講演を前に◆◇

 2016年10月2日。会場に着いたのは、開始30分前。講師平中忠信さんは展示パネル奥のソファーで話していた。バスに揺られての長旅にもかかわらずくつろいだ様子。早速挨拶する。「景色がきれいだった」とおっしゃっていたのが印象的。その後、平中さんはハンセン病展示や館内の本を見ていた。
 早々とお客さんが2人。15分前には5、6名。なかなかの出足。

◇◆講師紹介◆◇

 展示の発案者からの挨拶に続き講師紹介。主なものを記す。平中さんは大正15年生まれの90歳。「北海道はまなすの里」代表で、ハンセン病回復者が住む全国の園への訪問や、北海道出身者の里帰り支援をしている。この病についての「全道検証報告書概要」も執筆したそうだ。
会場を見渡すと27名。そのうち関係者報道以外の方が14名。いよいよ平中さんの講演が始まる。

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Ⅱ 講演
 「ハンセン病問題を知っていますか?」


◇◆ハンセン病の前に福祉◆◇


― 偶然福祉の世界へ ー

 「舌がもつれる。腰も曲がってきた。手術しているので、立って話すのでなくて安心」と前置きとしていたが、90代とは思えないくらいエネルギッシュ。
 平中さんは、戦後道庁へ就職し、昭和39年に福祉の仕事に配属された。福祉を知らずに配属されたので、勉強をして3年で社会福祉士の資格を取ったと言う。平中さんはその頃、福祉の仕事に面白さを感じたそうだ。それは、人と人の間を駆け抜けて結びつけ、喜びを作って行くこと。そして、縦社会でなく横の繋がりでの仕事であること。私も縦社会に息苦しさを感じ、繋がることで双方が元気になることに魅力を感じるので、この感覚はよく分かる。
 平中さん曰く、「若い頃から入退院を繰り返しながら社会福祉協議会の仕事をしてきた。そうした中で障害者や弱い立場の方々への眼差しが変わってきたように思う。」学びながら福祉の仕事に没頭する中で、福祉の魅力を感じたからこそ、周りへの眼差しが変わったのだなと思った。


― はるにれの里 ―

 昭和61年、平中さんは退職し民間の施設を作る。最初、それまで無かった重度知恵遅れの施設を保護者と札幌に作ろうとした。しかし、反対が多く、知人の厚田村村会議員の力を借り、厚田村(現石狩市)に作ったのだそうだ。おそらく平中さんは、福祉の仕事を突き詰めていく中で、周りからの信頼が大きくなって動かざるを得なくなったのだろう。また、様々な方との繋がりができたからこそ、できた施設だと思った。
 施設の名は「はるにれの里」。30人規模で、村に土地を提供してもらったそうだ。保護者などがボトムアップで施設を作る時に課題になるものは資金。そこで平中さんは、法人を作る元手となる親金を出してもらえるよう村に交渉し、出してもらったそうだ。行政を知っている平中さんだからこそできたことなのだと思う。後にこの方法は、保護者などが法人や施設を作っていく上でのモデルケースとなったそうだ。 


◇◆ハンセン病に関わったきっかけ◆◇

 ここまでは福祉全般との関わりの話。肝心のハンセン病との関わりはというと、実は、この施設を作る前からだそうだ。職場から北海道の財団法人北海道ハンセン病協会に理事を出す事になり、当時業務部長だったため理事になったのだ。初めてのハンセン病施設訪問は昭和55年。青森の国立療養所「松丘(まつおか)保養園」だったそうだ。それ以来毎年1回ずつ、青森へお見舞いに行っていると言う。現在、宮城県、群馬県、岡山県など7箇所に北海道出身者が入っているそうだ。

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◇◆明治以降のハンセン病患者隔離の歴史◆◇


― エスカレートしていく隔離 ―

① 光田医師の登場
 続いては、ハンセン病患者隔離の歴史。資料を説明しながらの話だった。以下年代を追って幾つか紹介する。
 1900(明治33)年の第2回癩(らい)患者調査では約3万人の患者。この調査で初めて北海道が含まれる。道内ほとんどの町村に患者がいたそうだ。ハンセン病患者隔離の推進者、光田健輔(けんすけ)医師が登場したのがこの頃。彼は、らい患者を扱うのが嫌がられていたこの時期に、年間3千人の手術をしたと内務省に自分を売り込む。それが認められたのか、1901(明治34)年、彼は老人施設東京都養育院内にハンセン病隔離施設を作ることに成功し、ハンセン病者の取り締まりや隔離が必要と政界に陳情もした。ここから隔離政策の歴史が始まる。

② 公立療養所の設置
 隔離政策は更に進む。1907(明治40)年らい病者を取り締まる法律ができ、1909(明治42)年には、全国が5地区に分けられ各地区に公立療養所が出来る。その時、北海道・東北地区には青森に北部保養院ができる。北海道に作らなかったのは、北海道まで送るのは忍びない。本州の外れ青森なら北海道からも来られるだろう、と考えたからだそうだ。その後、沖縄にも療養所ができる。こうして、全国に隔離施設が作られていく。
 療養所での生活は酷いものだった。1909(大正4)年、断種手術が始まり、断種を条件に結婚が認められる。それまで、療養所内の男女に子孫を残させないため分けて入所。しかし、子どもが出来て捨てたなどの事例があり、社会問題になっていたそうだ。入寮者は雑居部屋に住んでいた。8畳に10人くらいで、布団は1枚。看護婦を置かない。置いても入所者200人に対し1、2名。人間扱いをしていなかったのだ。これは戦前戦中だけの話では無い。憲法が変わっても隔離政策は続く。

③ 「無らい県運動」と「癩(らい)予防法」
 隔離政策は、更に強まる。1915(大正4)年に「無らい県運動」が始まり、各都道府県で患者狩り運動が行われる。当時、家の中にかくまっていた軽い人なども全て療養所に入れさせられた。光田医師が、入院者を増やし療養所の拡充をはかろうと考えことが背景にあった。この政策は、軽い人も家族からも無理矢理引き離し、ハンセン病患者への差別を一層強めたのだ。
 1931(昭和6)年には、「癩予防法(旧法)」が公布される。国立らい療養らい所の医者は警察権力を与えられ、逆らう患者を代用刑務所などに入れられるようになった。平中さんの話から、これらの政策には光田医師が絡んでいるように思え、光田医師がライの天皇と呼ばれていた理由が分かったような気がした。


― 隔離解消へのあゆみ ―

① 長島愛生(あいせい)園事件
 1930(昭和5)年、国立らい療養所第1号、岡山県の長島愛生園が開園する。園長は光田医師。1936(昭和11)年、そこで事件が起きる。患者がハンスト、作業放棄し患者の自治権を要求したのだ。
 長島は小さく、あるのはこの愛生園だけ。200人定員のところ、千人、その後は2千人が園に入所していたという。長島へは昭和50年代になっても小船でしか行けなかったそうだ。孤島の中で患者と光田院長との抗争は続いた。医師が警察権力を使う状態でも患者は頑張り続け、ようやく光田院長が条件付きで自治会を認める。自分の権益を守るため、妥協する者が買収されたりもしたそうだ。

② プロミンとローマ会議
 1943(昭和18)年、アメリカでハンセン病薬プロミンが発見される。1945(昭和20)年、日本にも伝わり、ハンセン病は治る病気となる。ところが、日本では、プロミンは広められず、患者はさげすまれ続けたそうだ。
 1956(昭和31)年、国際らい会議(ローマ会議)で偏見の除去と差別の禁止が決議される。この会議に日本も出席していたが、日本での隔離政策は変わらなかった。国内の反対勢力が強く、改善するべきとの意見は退けられたのだ。

③ 隔離政策の解消
 隔離解消に向かって舵が切られたのは、1963(昭和38)年。全患協(全国ハンセン病患者協議会)が国会に要望したのだ。療養所の職員組合もこれを応援した。これにより、さすがの光田院長など反対勢力は、隔離政策による権益を守り切れなくなっていく。1901年から始まった隔離政策が解消したのは、ようやく1996(平成8)年。この年、日本弁護士連絡会がらい予防法に関する声明を出し、らい予防法廃止法案が可決される。元患者には、2千万円前後の賠償金が支払われた。

④ 残る隔離
 らい予防法が廃案になっても、元患者はふるさとに帰ることが出来なかった。病気が治っているのにも関わらずである。平中さんはその理由について、「元患者は皆、入所した時、家族離散、村八分になっていた。親は亡くなっていて、兄弟は離散。病の公表によって兄弟が結婚できなくなったり離縁されるなど、摩擦が起きていた。らいでないとわかっても引き取り手がいない。一人で生活できればよい方だった。」と話していた。隔離政策は解消されても、長年醸成されてきた差別は根強く、私も含め多くの者が無理解なまま現在に至っている。

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Ⅲ 平中さんに訊いてみよう(質疑応答)

 

Ⅳ 講演を聞いて

 質疑の結びに、司会者が、「次の世代に伝えていくこと大事」と話し、平中さんが、「ぜひ、本を読んで理解を深めてください」と言っていた。私は、講演会を始めこの企画に関わることで、初めてハンセン病と向き合った。次の世代へ伝えていきたいと思う。

文:まぶさLED(百味編助)