昨年8月に、幕別でハンセン病をテーマにした映画「あん」が上映されました。その際、町内で講演をした、原作者のドリアン助川さんに「まぶさ」のメンバーがインタビューしました。「あん」への思い、映画制作の裏話、現代社会について…。ドリアンさんは「まぶさ」の多岐にわたる質問に一つひとつ丁寧に答えてくれました。講演とインタビューを元にまとめました。
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ドリアンさんが「あん」を書こうと思ったのは1996年。パンクバンド「叫ぶ詩人の会」で活動していたころ。この年、ハンセン病を患った人の隔離を定めた「らい予防法」が廃止された。
―らい予防法廃止されて、ほとんどの生涯をその療養所の囲いの中にいなければならなかった人たちの人生が明るみに出だした頃です。らい病は知っていましたが、療養所のなかで何が待ち構えているのか、本当に一生出られなかったのか、そいうことは分からなかった。らい病は、今はハンセン病と言っていますが、致死病ではありません。神経を犯す病気です。指の末端、鼻の先、そういう末端の神経から死んでいきます。昔は強力な副作用がある薬を使って、結果的に指が曲がってしまうため、見た目でこの人はあの病気だと分かる。今は治療薬が開発され、早ければ3日で治ります。感染力も弱いですが、戦前は不治の病と恐れられ、患者は差別されていました。家系の一人から病気が出たとなると、縁談、就職がなくなるなど、親戚一同差別の対象となる時代があった。この法律の恐ろしいところは、病気が治っても自由がなかったことです。療養所に入る時、戸籍から抹消され、名前も変わっている。法が廃止されてもホテルの宿泊、タクシーの乗車の拒否もあり、差別は続きました。―
バンド活動の傍ら、ラジオの深夜番組で中高生の悩みを聞いていたドリアンさんは、リスナーでいじめを受けている子どもだけを集めたシンポジウムなどを開き交流を重ねた。そこで「人間が生きる意味」について若い世代の考えに疑問を抱く。
―生きる意味について尋ねると30人中29人が「世の中の役に立たないと意味がない」と答えました。もちろん、社会の役に立つことは素晴らしいことです。でも、皆が同じことを言った時に違和感を抱きました。ハンセン病を患った人たちは、療養所に強制的に入り、生涯をそこで暮らさなくてはならなかった。20歳で病気が治っても70歳まで(療養所に)いなくてはならなかった人に「社会の役に立たないとダメ」というのは非常に暴力的な言葉です。―
―社会の役に立つとか立たないでなくて、おそらくすべての生命は生まれてきた意味がある。仮に一生ベッドの上から起き上がれない人でも、重度の障害者でも生きている意味があると、その物語をハンセン病を背景に書きたかった。―
執筆を誓ったドリアンさんは、ハンセン病を扱った文学作品、患者の手記を手にとった。すさまじい実態に「心が火傷したよう」になり、幾度となく挫折した。自身の人生も低迷。本も売れず、引きこもるような感じになった時もあった。テレビ番組のハードな仕事で体調を崩し、禁酒をすることに。
―甘い物がなぜ世の中にあるか分からなかったが、酒を飲むのをやめ、2週間後に無償に甘いものが食べたくなった。当時はパティシエブームだったのでパティシエの小説を書こうと思いました。自分の未来が見えない中、どうせならパティシエになろうと菓子専門学校に入りました。1年目の進級試験はどら焼きでした。そのころ埼玉・所沢で、不登校の子を応援している団体からライブの依頼がありました。知的障害、自閉症の子どもたちの中に、なぜか初老の男性2人と女性1人が見えており、ハンセン病療養所の多磨全生園から来た方でした。それまで抱えていた宿題(ハンセン病の作品執筆)の話をして「きっかけがつかめない」と言ったら、「遊びにいらっしゃい」と言われました。―
1週間後、菓子折を持ってもって療養所の前に立ったドリアンさん。「指がない方と握手するとき、どうしたらいいのか。鼻のない人と、どんな顔でどうやってはなしたらいいのか」と心に動揺が広がり、30分ぐらい中に入れなかった。
―皆さん、一生懸命生きてきた、人生の師のような方ばかりでした。本で勉強してきたことと、実際に患者の目の前にしたときとは全然、感覚が違い、目からうろこのことがたくさんあった。これまでは患者の側に立とうとして、「患者になるしかない」という思いで終わっていた。元患者から話を聞き、一般の人間としてびっくりする自分がいる。元患者と一般の人間という2本の柱を立てることで何とか書けるような気がしました。もう一つ(のきっかけ)は、元患者の森元美代治さんが多摩全生園に来た時に世話をしたのが、「製菓部のみんなだった」。製菓部について尋ねると、「お菓子を作る人たちで、患者全員の誕生日にお菓子を届け、盆と正月も甘い物を作ってくれる人。たぶん元は菓子職員」。もうこの瞬間、自分しかこの物語を書けるのは自分しかいないと、その日から執筆を始めました。―
3年かけ、11回直した。出版を予定していた大手出版社から出すのを拒絶され、荒れた時期もあった。心配した知人がポプラ社に橋渡しをして「あん」はようやく世に出た。女性作家らが積極的に書評で紹介したこともあり、注目を集めるように。韓、英、仏など7カ国語に訳されることが決まり、映画化された作品はフランスのカンヌ映画祭で高い評価を得た。
―いろんな回り道をしてきたが、一つになって「あん」につながった。森元さん夫妻をカンヌにお連れし、喜んでくれた。この2人がいなかったら「あん」はなかった。2人が喜んだ姿を見てようやく宿題をやり終えた気持ちになった。いくら世間の評判がよくても元患者がつまらない思いをしたら意味がない。―
―フランスでは講演会後のサイン会で10歳のお子さんを亡くされたお母さんから「ずっと苦しかったが『あん』を読んで胸のつかえが少しおりたような気がする」と言われた。11回書き直して、出版社に首を切られた後も崩れずに持ち直してよかったとつくづく思いました。こんな地味な文芸作品が世界中を駆け巡っている。非科学的なことをいいますが、僕はどう考えても多磨全生園の納骨堂に眠る4千体の魂が後押しているという気がしてならないのです。―
物語を通して伝えたかったことは、人間はその存在自体に意味があるということだ。福島県の中学生を対象にした「あん」の上映会の際、講演したドリアンさんは、こう語りかけた。
―皆さんビックバンって聞いたことありますか。この宇宙が誕生した時は小さな点だった。猛烈な勢いで爆発して今の宇宙につながったという学説です。たぶん本当でしょう。しかし自分にはイメージしてもよく分からない。本当のビッグバンとは、皆が生まれたその瞬間なんだよ。皆が生まれた瞬間にこの世界も一緒に生まれたんだよ。皆が感じる、雨や花、虫、月や星、お父さんお母さんも、あなたが生まれた時に一緒に誕生したんだよ。だれもが、どんなにみじめに思える人も、お金がない人も、障害を背負った人も、すべて等しくこの宇宙を背負っているんだよ―という話をしました。―
―私たちが生まれた意味がこの世を味わうことだとしたら、そして、それを宇宙がそれを望んで100億年という時間をかけてこの生命を育んだのだとしたら、どんな立場の人であれ、この宇宙が望んだ命。仮に一生ベッドから起き上がれない人も。その人も望まれてきた人だ。最後の一秒までこの世を味わう、楽しむ、見る、聞くということが、私達の、とても豊かな味わい深い義務と権利だと思います。―
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これは米国の宇宙物理学者ロバート・Hディッケ(1916-1997年)が唱えた説だそうです。小説の最後、主人公がしたためた手紙に、ドリアンさんのメッセージが託されています。「あん」を通して、1人でも多くの人に触れてほしいと思います。
※ドリアン助川さんに迫ったインタビューの番外編はこちら※
【ドリアン助川】
1962年東京生まれ。早大第一文学部東洋哲学科卒。大学在学注に劇団を主宰。雑誌ライター、放送作家などを経て、1990年にバンド「叫ぶ詩人の会」を結成し99年まで活動。その後、渡米しライブ活動などをする。帰国後はライブと執筆活動を展開。著書に絵本「クロコダイルとイルカ」「バカボンのパパと学ぶ老子」など。現在、女優の中井貴恵さんと一緒に、「あん」の朗読劇で全国を巡回している。
文:まぶさLED(黒井ねこ)