2024年 (令和6年)
11月21日(木)
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 歌人・石川啄木の妻『石川節子』。14歳の時に啄木と恋に落ち20歳で結婚するも、不運が重なり故郷を追われ、函館、小樽、札幌、釧路と移り住む。啄木は文学で一旗あげる決心をし、妻子と母親を函館の友人宅に残し単身上京するが小説も売れず、妻子を呼び寄せるどころか下宿代も払えないありさま。しかし、節子は啄木の文学的才能を信じて精神的な支えとなる。やがて節子も上京するが、二間の借家に姑と幼い子供をかかえた4人暮らしの生活はあいかわらず貧乏のどん底。 

 その上、姑の結核が伝染し、啄木も節子も体調を崩す。薬を買う金もままならないまま啄木は亡くなる。死に際、啄木に日記などを燃やすように言われるが、日記と遺稿を後世に残した。死後、啄木が評価されたのも節子が啄木の才能を信じてやまぬという一念、使命だったのかもしれない。節子も啄木を追うように1年後に死亡する。28年の生涯だった。   生まれたときから腸閉塞という難病を患い、4歳まで3度の手術を行うとともに11歳まで入退院を繰り返し、小・中・高の12年間、養護学校に通う。9歳の時、偶然通りかかった道端で将棋教室の看板を見つけ、教室に通い始める。その教室は、女流棋界№1の実力者「清水市代」の父親が経営する将棋教室だった。入退院を繰り返し、点滴を打ちながら将棋の練習に励み、中学部1年の時、女流プロ棋士に合格。さらに師匠である「清水市代」から第21期女流王将戦にてタイトルを奪取する。『生きてこそ光り輝く』は著者が生かされてきた19年間を綴った一冊です。巻末で「女流プロ棋士として着実に足跡を残したい。生かされていることの本当の意味がわかるように…。」と結んでいます。将棋教室の看板に導かれた彼女の運命は、将棋がこの世に存在する意味のすべてとなった。
 かつて銀座に小津安二郎、川端康成、白州次郎らが集まる伝説のバーがあった。その店の名は『おそめ』。マダムは元祇園で人気芸妓だった“そめ”本名:上羽秀(うえば ひで)で、戦後、京都で同名のバーで成功し、東京に進出した。嫉妬うずまく夜の銀座で栄光を掴むが、やがて大きな蹉跌を踏む。私生活では、妻子持ちの俊藤浩滋という映画プロデューサーを死ぬまで支え続けた。京都の炭問屋で生まれ、家族の寵愛を受けて育つが母親が義父に辱めを受け、家を出て母子の生活を送る。戦前、戦中、戦後を無心無欲、一途さと純粋な心で生きた秀。数奇にして華麗な半生は宿命そのものと感じた。平成24年10月1日、急性呼吸器不全のため死去、89歳。ドラえもんのタイムマシーンがあるなら、若かりしころの“おそめ”に会ってみたい表紙の写真、綺麗です。 (た)

三冊堂117号 (2013/11/28)